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鍵山秀三郎の名言・格言

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鍵山秀三郎とは

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鍵山 秀三郎(かぎやま ひでさぶろう)

出身地:東京都 誕生:1933年8月18日 職業:実業家

株式会社ローヤル(現 イエローハット)の創業者。また、日本を美しくする会の相談役でもある。掃除をテーマにした活動・講演を全国各地で行なっている。

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鍵山秀三郎の名言・格言

幸せに生きるためには、いま生きているこの瞬間、この日をいかに過ごすかが大切です。
大切なことは、学びを得たらそれを生かす努力をすること。
根を養えば、木は自ずから育つ。
ここが一番肝心なのですが、失敗を重ねたことを乗り越えた人のみが、自分の才能というものを見つけ出して、それを生かし最後の成功を手にするわけです。
心中の覚悟こそ真の原動力。
成功のコツは2つ。それは「コツコツ」。
私が若者たちに言いたいことは、自分自身を個人として確立して、自分で自分の将来をつくり出すんだという意識を持つことです。そのために、今年、今月、今日、何を努力するのかを自分で決めるよりしかたがないのです。
微差、僅差の積み重ねが、大差となる。
足元のゴミひとつ拾えぬほどの人間に、何ができましょうか。
停滞ということは、そのこと自体がもう退化と等しい。
本当に大切なことは何が社会全体の幸福になるかです。小さい視野や私欲にとらわれ見失わないで、そうなるようにしたいものです。
私は、一見格好悪いようだけれども、自分に求められていることを地道にこなしていくことが、実は非常に大事だと考えています。
事業を営む上で何を目標とするのかは、たいへん大切なこと。
感動する人は、疲れを知らない。
楽しくて愉快なときの過ごし方に、工夫も努力もいらない。
人の真価が問われるのは不快なときである。
私は社風を最優先に考えました。社風が悪かったら、どんなに利益を上げても、社員は本当の意味で幸せにはならない。つまり、会社の存在価値とはその会社が存在することによって、世の中がよくなるということです。
無私の心を自分で確立するのは、実はそれほどむずかしいことではありません。どうすればよいかと言うと、自分の得にならないことをできるだけやっていく、ということに尽きるのです。
プライベートな活動からビジネスが生まれることも、その逆のこともある。
人間は義務でやらなくてもいいことが、どれだけできるかということが、人格に比例していると思います。
人間が何かを考えるとか何かを思いつくというのは、頭のする仕事です。そして人間が実際に働くということは、体が行う仕事。それから何かを感じるというのは心の仕事になります。私はこの3つの仕事の成り立ちがバラバラではダメ。
過去に感謝できる人は未来のことを考えることができる。過去に対する感謝もない人は未来を考えることができない。
私どもより先輩ではるかに力があった同業者は、みんな消えてなくなりました。最終的には、どんな正しい志を持つかが大事ではないかというのが私の考えです。
もともと、世の中に、雑用というものはありません。
雑な心でするから、雑用になるだけのことです。
気の利いた文面よりも、ハガキはとにかく書くことが大切。
弱い者が本当に滅びてしまったら、強い者もまた生きられなくなる。
私にとって掃除は、人から押しつけられたものではなく、自分の中から出てきたものだからこそ、辛くても耐えられるのです。
人間の心は、そう簡単に磨けるものではありません。
ましてや、心を取り出して磨くことなどということはできません。
心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすることです。
とくに、人のいやがるトイレをきれいにすると、心も美しくなる。
人は、いつも見ているものに心も似てきます。
「凡事徹底」というのが私の信条です。掃除にしても仕事にしても、平凡なことを積み重ねて徹底していくと、何事も行き届くようになるということです。
一つや二つ拾ったってしょうがないじゃないか。
という考えではなく、

一つでも二つでも拾えば、それだけ世の中がきれいになる。
そういう考えです。

誰にでもできることを、誰にもできないくらいやる。平凡なことを徹底的にやれば、非凡になる。
自分にとっての幸せの価値を見失わず、いつもたおやかな心で生きていこうとすること。それが理想の人生に近づくための心がまえではないでしょうか。
考えるときは、頭だけで考えないで、心を伴って考えなさい。働くときは、ただ手足を動かしているだけでは単なる作業にすぎないので、そうしたときには頭を使って、考えながら行うこと、そうすれば仕事となる。
運命というものは最後になってみなければわからない。
大切なのは努力することです。努力をしなかったら何も始まらない。だから私は、掃除の実践を通じて努力のしかたを伝えているのです。掃除を通して精進することで、どんな人でもある一定の水準まで向上できる。その人たちが努力をすれば何とかなるという確信が持てれば、いかなる境遇になっても絶望しないですむ。
国民一人ひとりが、自分にとって、もしくは誰にとってよいかどうかではなく、本当に何が正しいかどうかを考えて行動するようになれば、どんな問題も解決できるでしょう。
この国をよくするのは、財務大臣でもなければ、総理大臣でもありません。
国民一人ひとりの、ほんのちょっとした生き方にかかっています。
自らに厳しい人ほど、人に優しくなれる。そして厳しいことをやってきた人ほど、小さな喜びを大きく感ずる。
価格だけが競争ではありません。
もちろん、お客様にとっては安ければ安いほどよいことです。
しかし、ただ安ければよい、というだけのお客様ばかりではありません。
価格よりも、より質の高いサービスを求めてこられるお客様も必ずいらっしゃいます。
価格競争をする前に、サービスを見直すことが先決です。
同じお金を使うにしても、すぐ効果の出ることに使うだけではダメなのです。むしろ5年後、10年後に効果が出てくるようなことにこそ使うべきです。
目の前の好都合こそ正しく、幸せにつながると勘違いしている人たちは、好都合の条件ばかりにとらわれてしまう。だから、世の中全体が自分勝手になってきたわけです。
人の心は捨てたものではない。伝わらないようでいて伝わっているのです。自分一人でも、人間らしさが高まる行動を起こせば、社会がだんだんよい方向へ向かうはずです。
希望が持てないのは昔だって一緒。でも毎日、今起きていることに真剣に取り組むことによって、希望が見えてくる。
与えられた境遇を受け入れて、少しでもよくしていく努力をする。
それが大切な人生の意義だと思います。
自分を退化させず保つ方法として、自分なりの美意識や美学を備えていればこれほど望ましいことはないように思います。
人生は長いのです。自分が人生を賭けるに足る動機は必ず与えられます。それを逃してはなりません。
一番大事なことは、他人から指示、指導されて事をなすのではなく、やはり自らが望んで自分に命令をして活動していくということ。これが人間としての本当の活動であり、そのことによって、真に成長し続けることができるのだと思うのです。
いままで、誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けました。
そのおかげで、平凡の中から生まれる、大きな非凡を知ることができました。
私は、みずからの才能がなかなか発揮できないことを、環境のせいにしたり時代のせいにしたりしている限り、その人は絶対に日の目を見ないのではないかと思います。まずは自分を取り巻いている条件をすべて受け入れる。そしてその中で自分は何ができるかを焦らずに考えることが必要です。
人は人に対してたいへん大きな影響を与えうるものです。親子であれば親が節度を保ち、実践していれば、よい感性は子どもに継承されるはずです。また他人同士でも、お互いに影響を及ぼし合います。
企業の効率主義は決して悪いことではありません。しかし、度の過ぎた効率主義はその企業を社会悪へと走らせます。企業の経営者が度の過ぎたことを社員に要求し始めると、その社員はとんでもないことを始めるわけです。
私が考える責任感の本質とは、自分以外の守るべきものを持つことにあります。
人を大切にするということは、人に喜びを与えることである。
十年偉大なり、二十年おそるべし、三十年歴史なる。
人間は自分自身が手痛い目にあわないといけない。人間は自分の身上に何か起こらないとわからないもの。
継続するためには、たえず工夫改善して進歩させることです。
そのうえで、コツコツ努力することです。
少しでも進歩すれば、楽しくなります。
楽しくなると、続けたくなります。
今の時代は、あまりにも結果を早急に求めすぎるためにテクニックに走り、じっくりと考える力や耐える力を養うことがおろそかになっています。人間として、一番大事な教育が欠落している。私には自分が根本から鍛えられる生き方をしない限り、自分の真の才能を見つけ出すことはできないのではないかと思えるのです。
いろいろな考え方、いろいろなタイプの人が集まって、ある目的のために協力してやっていくのが会社であり、組織です。
人生において真剣に何かをやろうとすれば失敗はつきものです。しかし繰り返される失敗に負けず、失敗を乗り越えた人のみが、知らないうちに自分の中のたしかな力や才能を自分で発見していくのです。
金儲けしたいという志を持つことは、悪いことではありません。住友財閥の伊庭貞剛(いば・ていごう)は、「われ財を愛す」と言いました。しかし、その後に「これを取るに道あり」と続けたんです。
本物の人間とは、言っていることとやっていることが同じ人です。もっともらしいことを言う人はたくさんいますが、口だけではいけません。実際に行動して何か犠牲を払っている相手に、人は信頼を寄せるのです。
私どもはフランチャイズチェーン展開もしておりますが、こちらから加盟をお誘いした企業はほとんどありません。当社の社員の立ち居振る舞いや、仕事の進め方を見て、取引をしたいとおっしゃってくださった企業ばかりです。このような信頼を築いてこられたのは、掃除をはじめ、凡事を徹底してきたことが大きいと思います。
何にも成果を得られないことをやるぐらい、たいへんなことはありません。しかし、そこにこそ喜びが生まれてくるのです。
小さいことをおろそかにするから、成果に結びつかない。
それぞれの家庭に家風があるように、会社には社風があります。私はこの社風が、経営をしていくうえで最も大切なものだと考えています。私は売上や利益の規模だけがいい会社の尺度だとは思いません。
規則は人をとがめ規律は人を和ます。
誰もが特別なことをしたがりますが、世の中に特別なことなんてありません。
ないものを探しているうちに、一生が終わってしまいます。
でも平凡なことなら、いくらでもある。
その一つひとつを大切にしていけば、やがて大きな力になります。
目的や目標は日常でなすべきことをきちんとやれば、自然に見えてくると思います。普段やるべきことをやっていない人が掲げるのは欲望です。多くの人が挫折してしまうのも、自分の欲望を目的・目標と勘違いしているからではないでしょうか。
みずからの心の平穏や幸福を願うならば、あらためて日常の些細なことに対してあるべき心、美意識を養うように考えるべき。
現代は日本に限らず、人類は助け合うという「衆の世界」から「個の世界」に移ってまいりました。自分だけが今の「快」「心地よさ」「好都合」を追求していれば幸せというふうに勘違いしている。いくら追求してもそこに幸せはない。
組織の中で幸せになれるかどうかは、その人が謙虚で純粋な気持ちで仕事に向かっていけるかどうかにかかってくる。
掃除を続けていると、掃除をしている人の心が澄んでくる。心が澄めば、いろいろなものがよく見える。他者への気遣いも当たり前にできるようになる。そういう社員が増えれば、会社は自然とよくなる。
余裕をなくすと先のことを考えなくなる。これは政治にしても経営にしてもよくないことです。
世間一般では、一流大学を出た人がエリートとしてもてはやされていますが、私は全くそういうものに価値を認めません。いい習慣をどれだけもっているか、それが私の一つの価値基準です。
いまだかつて、倒産した企業で、きれいに整然と掃除が行き届いていた会社はありません。
私は社員にいい人間になってほしい、社会、国をよくしたいという願いを込めて掃除をしています。このように目的が定かなら、それを実現するための手段・方法は自分の中から湧いてきます。
常々言っていることですが、「大きな努力で小さな成果」です。成果がすぐ出ないからといって焦ってはいけません。
自分の任期中だけの成績を上げようとするのではなく、もっと大きな志を持って、あるべき正しい姿を貫き通してほしい。
好都合と不都合とがあったとき、重要なのは好都合が正しく、不都合は正しくないと決めつけないことです。そもそも、本質的にどうあらねばならないのかという判断ができないから間違うのです。ときに不都合だけれども正しいことがあるものです。
一回の掃除では何も変わりませんが、積み重ねることで信頼に変わっていく。
自分を守ろうとすればするほど、人は動いてくれないものです。
自分を投げ出したとき、初めて人が動いてくれるようになりました。
聖書の中に「汝の行動は汝の預言者」という言葉があります。まさしくその通り。今とっている行動そのものが未来を予見している。
私は企業内においては、個人の競争をあおるような体制ではないほうがいいと思っています。集団で利益をあげていくという体制にしなければ、社内の雰囲気はよくならないと思います。
少しでも世の中をよくしていくために大切なことは、人と人が直接触れ合って、お互いに感受性を高めるということに尽きる。
効率と非効率は陽と陰のようなものだと私は考える。どちらがいいか悪いかではない。陰陽のバランスが崩れれば世の中が乱れる。効率を追求するあまり、バランスが崩れているのが今の社会だ。
人が見捨ててしまいそうな小さなことでも紙一枚の厚さでいいから積み上げることが大事だと思います。
目には見えないけれども、確実に積み上がっているんです。
たとえ小さいことであっても、正しいことをやり続ければ必ず大きな影響を及ぼすようになる。
平凡なことを徹底してやると、平凡の中から生まれてくる非凡が、いつかは人を感動させると信じています。
私はどんなことでも遠くのほうから始めます。たとえば、戦が始まったとして、はやっていきなり敵方の城の本丸に乗り込んだら、すぐにやられてしまいます。そのような性急なことをせず、外堀から埋めていく。遠くのほうから誰にも分からないほど少しずつ着手して、気がついたら、あっ、こういうことをやってきたのかというのがいい。いつも私はその手法なのです。
正しい歴史が何より大切で、なかでも国が亡ぶという史実を学ぶことは重要です。ユダヤ人の歴史を見てください。国を失った民族がどれほど悲惨な運命を辿るものか。かって私はイスラエルに行って、彼らの苦難の歴史を直接学ぶことができました。チベット族やウイグル族の歴史を知っていただきたい。どれほどひどい目に遭っているか。その歴史を学べば、日本人として何が大切かも見えてくるはずです。
企業としては、すべての時間を利益の追求に費やしたいと考えがちですが、それでは会社としての魅力はないし、社員の成長も限られてしまう。会社の利益に直接結びつかないことでも、会社のためにプラスになることであれば、できるだけ引き受けていく。そうすると会社にも社員にも幅が生まれ、豊かな心で仕事を進めていくという社風が醸成されます。
余裕とは先に楽しみがあるからできてくるものです。昔は貧しくても余裕がありました。ところがいまは先に楽しみを取ってしまって、あとから義務や債務の始末をする。逆転してしまったのです。ですから私は、よいことが後に控えていることはいますぐなすべきだと考えています。普通の人は「益がなければ意味がない」という。しかし、二千五百年前の晏子(あんし)は「益がなくとも意味がある」と言いました。
冬は辛いですよ。朝早く、ふるえるような寒さの中で掃除をするのは、何年も掃除している私にとっても、けっして愉決なことではない。ところが、今日は眠いからといってやめてしまうと、「あいつはやっぱり口だけだ」となってしまう。昨日までやってきたことを無駄にしないためにも、継続することが大切です。
社会のルールに反しなければ事業が成立しないのであれば、そんな会社はないほうがいい。私は自分の子供にしても、有名大学を出てエリートになって欲しいとは思っていません。その社会のルールに反したような生き方はしてもらいたくない、ただそれだけですね。有能であって人に迷惑をかけるくらいなら、無能で人に迷惑をかけない人になって欲しい。これが私の基本的な考え方です。
幕末・明治時代の臨済宗の禅僧に今北洪川(いまきたこうぜん)という人がいました。この人の言葉に「百萬経典(ひゃくまんきょうてん)日下(にっか)の灯(とう)」という言葉があります。百万本の経典を読んで勉強しても、ただ頭の中に知識として持っているだけで活動しなければ、太陽の下のろうそくの火にすぎない。つまり、役に立たないことです。
残念なことに格差は開きつつあります。しかし、そこで諦めたり、へこんだりしてはいけません。そもそも格差はけっして悪いことではなく、憎む必要もありません。格差があるから挑戦していこうという人も出てくるのです。みんなが完全に平等だったらがんばる人はいなくなるでしょう。
いまの若者は、よく富や名声を目標にして自己実現したいと言います。しかし、そんなところに自己実現なんてないんです。本当の自己実現は、人の役に立って喜ばれたときなんです。地位だとか名誉だとかいう欲望だけを満たして、それが自己実現だと考えるのは大変なカン違いです。
いつの時代も異端な生き方は、人から理解されるようになるのには時間がかかります。私がやってきた掃除は、いま学校関係者のなかでその重要性が理解され、教育活動の一環に取り上げるところが増えてきましたし、地方自治体などでも注目するようになりましたが、社会に認知されるようになるまで30年かかっています。それもやっと理解され始めたというところです。それほど時間がかかるものです。
最近、私が憂えていることがあります。それは日本全体の、というより世界全体の潮流なのですが、自分の責任に帰すべきことを他人の責任に転嫁する例をたくさん見かけることです。個人のレベルに限らず、国同士でも「自国は悪くない、他の国が悪い」と言ったりしているぐらいです。誠に悪しき潮流です。その悪しき潮流を変える元になりたいという願いから、私はいまの活動に取り組んでいるといっても過言ではありません。こういう道義的な問題の解決を政治家に求めたり、行政に求めたりしても何も変わりません。
私は社風をよくするために、大きな犠牲を払いました。たとえば、売上の6割近いお得意先との取引をお断わりしました。たくさん買ってくれて支払いもよい、ただ法外なわがままも言うお得意先でした。なぜお断わりしたかというと、社員がその仕事を維持するために苦労し、だんだん卑屈になってきたからです。先方は嵩(かさ)にかかって無茶を言う。本当ははらわた煮えくり返っているのに、へつらって仕事をしないといけない。ただ売上と利益を上げるだけなら社員に、「商売だから、それくらい我慢しろ」と言います。でも、そんな我慢を強いることは、私にはできなかった。だから取引をやめました。
最近は何でも比べたがるようになりました。たとえば、自分があるものを持っていても、隣の人がもっといいものを持っていると、自分がみじめに見えるのではないかと気にします。おかしなことに、自分が持っているものに目がいかないで、いつも人の持ち物にばかり目を奪われるのです。まるで、獣が獲物を狙うかのようです。
結果や成果さえ出せばいいという風潮が最近は強いですが、私はその過程こそが大切だと考えています。基本を徹底する。そんな社風を持つ会社が増えれば、日本が抱えている問題も少しは良い方向に向かうのではないかと思うこのごろです。
一流大学を出た政治家と新幹線で乗り合わせたことがありますが、彼らは向かい合わせに椅子を倒し、飲み食いをした後、椅子を元に戻すわけでなく、後片付けもせずに降りていった。こんな人間はどんなに有名でも、地位が高くとも、人間としての評価はできませんね。世の中を良くしたいのであれば、人のものまで持って降りるくらいの気持ちが欲しいと思います。
イエローハットの本社を北千束(東京都大田区)に移したときです。前にいた会社がいい加減だったようで、何も関係がない私たちまで近所の人から目の敵にされました。しかし、近隣のゴミ拾いをはじめ、駅の改札の外を掃除するうちに、反応が変わった。もっとも批判的だった隣の家の人も「この土地をあなたのところに買ってほしい」とまで言ってくれました。掃除を続ける姿には、やはり人の心に響くものがあるのです。その後、中目黒に引っ越したときも同じことが起きました。最初は歓迎されませんでしたが、近隣地区一帯と近所の公園の掃除を続けているうちに変わってきて、手伝ってくださる地域住民の方も出てきました。
もし正しくありたいと願う人がいるならば、ぜひ古典を学んでほしいと思います。なぜかというと、古典とは失敗のケーススタディの宝庫なのです。こういうことをすると滅びる、こういうことをすると人から叩かれるということが、いっぱい登場するからです。
ある大学教授からは「掃除は経営者の仕事ではない。掃除は社員にやらせて、もっと経営者らしい仕事をしろ」とまで言われました。その考えには、いまでも納得できません。社員は就業規則に従い動くのではなく、会社の社風に沿って動きます。社風が悪い会社では手抜きが横行するし、逆に社風が清廉な会社だと、社員もそのように動く。その社風をつくるのは経営者の役目です。だから、社長自らトイレ掃除をして、何が悪いのかと。
私は、「平凡な人を非凡に育てましたね」と言われました。しかし、そうではありません。「平凡な人が平凡な仕事をしても成り立つ会社にした」だけなのです。だから、平凡な人が非凡な仕事をしたわけでもなく、平凡な人が非凡な人になったわけでもありません。経営者である私自身も非凡ではありません。ですから人に非凡なことは求めませんでした。自分だってそうではないのですから。平凡な人でも気を入れて、責任感を持ってふつうに仕事をしていたら、経営は成り立つものです。
社員は規則によって仕事をするわけではありません。命令でもやりません。社風に従って仕事をしていくものです。ですから、少しでも社会を大事にしていこうという社風であれば、社員もおのずからそういう動きをするようになるものです。
効率化に集中すると、他者のことを思いやる余裕がなくなり、自分の与えられたことだけをやる。しかも、個人の成果が洗いざらい数字に表わされる。ますます部署ではなく、誰が成績を上げたかだけが問題になって、人間性が介在する余裕がなくなってくるのです。
昨年末、さる県の知事から電話があり、私のある行動に対して、日本を代表するたいへん有名な方のお名前が付いた賞を贈りたいという打診がありました。私は自分一人の業績ではないと申し上げ、辞退しました。栄誉なことですが、私には興味のないことなのです。私はただ自分の志に従って精進して活動しているのですから。
昔は慢性的な人手不足だったので、社員を募集しても、いろんな会社を転々としてきたような人ばかりやってきます。そうした人たちはルールを守るとか物を大事にする意識が薄く、営業車でよく事故を起こしました。そこで始めたのが車の掃除です。うちではみんなで一台ずつ、流れ作業できれいにしていきます。このやり方がよかったのか、事故は激減しました。営業車がきれいになると、車の停め方から客先での態度まで、社員の行動がひとつひとつ変わってきます。それを見たお客さんも、「あそこの社員は違うね」と言ってくれるようになる。そうやってイエローハットは少しずつお客様から信頼してもらえる会社になっていったのです。
私どもの会社では、弁当を取れば残ったものはゴミとしてきれいに分別し、容器は洗って返す。「なんでそんなことまでするんですか」という人もおりますが、これすべて人格づくりと思っているんです。社員に人格、人柄が下劣になるようなことはしてもらいたくないし、またさせたくないからです。
私が、社員が苦労しようが売上さえ上がればいいと思っていたら、いまの会社はなかったでしょう。まず社員が卑屈な思いをする会社にはしたくない、こんな取引がいつまでも続くようならばやっている意味がない。そういうところから脱却をしようという強い意志があったから、困難にも耐えることができたのです。
どんなによい畑だって3年も放っておいたら、雑草だらけになるのと同じように、人間の心も手入れしないと草だらけになります。草が生えると、道徳は廃れ、ゴミを投げるようになる。自分が常に正しくいられるためには、自分の心の雑草を刈ってゴミが入らないように、いつもきれいにしておくことが大事です。
公益社団法人のACジャパンが、思いやりが大事だといったテレビコマーシャルをさかんに流しています。もちろん間違ってはいないのですが、お金を使ってまで宣伝することではないと思うのです。それよりもなぜ思いやりの心が育たない社会になったのか。その仕組みを解明し、根本的な原因を追究していかないと、あのようなコマーシャルをいくら放送しても意味がないのではないでしょうか。
終戦後、私たちはいろいろなことを望みました。ご飯をお腹一杯食べたい、一日一個の卵を食べたい、毎日牛乳を一本飲みたいとか。あの当時望んだもので、叶えられなかったものは何もない。望んだものはすべて手に入った。しかし、豊かさを手に入れる一方で、私たちは人に対する思いやり、公徳心といったものを失ってきてしまいました。比重としては失ったものの方が重かったかもしれないですね。豊かさを手に入れたのだから、もう一方の暖かな心を失わなければ、私たちは本当の幸せを手に入れることができたわけです。
自分の欲望に基づいた目標達成を強いるのではなく、一人ひとりの社員が現場で注ぐ努力がどれほど尊いかを思い、その尊さに匹敵する公的な目標を設定する。経営者として大切なのは正しい目標をすえ、それに徹する覚悟ではないでしょうか。
掃除には大切な意味があります。実に多くの気づきをもたらしてくれるのです。同僚に誘われて最初は煙草を吸いながら嫌々掃除をしていたような人が、吸殻を捨てなくなる。掃除をすると、近所の人に喜ばれるため、もっときれいにしようと様々な工夫もするようになる。こうした変化は仕事の仕方にも着実に反映されていきます。
実は私は採用面接に立ち会ったことがないのです。なぜかといいますと、私が採用面接に出てしまうと、どんなに気をつけていても、つまるところは自分の好きな人を入れることになるからです。「それのどこがいけないんだ」と言われるかもしれませんが、私にはそれが好ましくないと思えたから、とお答えするしかありません。
成功する事業、こういうと、いかに売上や利益が大きいかという話になります。しかし、私は、自分たちの分を知り、本当に価値あるものを生み出すことに徹した事業者こそが、真の意味で成功しているのではないかと、心の底から思いたいのです。とくに若者には時代を読み、人の心を見つめながら、本物への挑戦を願いたい。
人々の荒んだ心、それが犯罪を多発させ、社会的コストを増大させていることは確かです。企業はリストラをして100億円、200億円の合理化を成し遂げたかもしれない。しかし、それはそれ以上、いやその何倍もの社会的コストを増大させているかもしれません。企業はそれを知るべきですね。社会的コストはなかなか計算ができません。それだけになかなか気がつかないのですが、社会全体のコストを下げるような生き方をしなければいけないと思います。そのためには何といっても、穏やかで優しい人間の心を育てることが一番大事だと私は思うんです。
国や社会、個人の進退でも理想を語ることは簡単です。しかし、理想とはあくまでも理想であって、時間をかけて到達するものです。それをいますぐやれると言うことは欺瞞にほかなりません。子供が飛行機の操縦士になりたいと言うのは将来の夢です。それをいまもう、すぐにでもなれるかのようにそそのかしてはいけません。正しい努力のしかたこそ伝えるべきなのです。
日本人が考えないといけないことがあります。まず、日本人は、日本人として日本に住んでいることがどれだけ幸せなことであるかということを知らなければいけない。私はそう思います。何かと自国に文句を言う人も多いですが、本気で海外移住を考えている人はほとんどいません。やっぱり日本が一番です。だとしたら、この住みやすい幸せな国を、自分たち国民が自分で守ろうという意識にならないといけない。いくらアメリカが自由な国だと言っても、アメリカ人にはなれないし、憧れてはいてもやはり日本人が知る日本のよさを超えるものではないでしょう。
掃除をしたからといって売り上げが上がるわけでなく、それは迷いましたよ。ただ迷う度に考えました。「他に何かいい方法があるのかと」。あれば私もそっちへ行ったと思います。しかし、私のような何の取り柄もない男がやれるのは掃除ぐらいしかなかった。なければ結果が出る出ないにしろ、これをやり続けるしかない。ある程度までやり続けますと、今度は止めるのが惜しくなる。長年努力を積んできているわけですから、結果が出る出ないは別にして、自分が過去にしてきた努力は簡単に無にできるような努力ではないはずだと。また、長年続けてこられたのは工夫をしてきたことですね。もっと使いやすい箒はないか、どうすれば便器の汚れが簡単に取れるかなど、工夫をする。それが長続きさせる秘訣ですね。
私が、社員が苦労しようが売上さえ上がればいいと思っていたら、いまの会社はなかったでしょう。まず社員が卑屈な思いをする会社にはしたくない、こんな取引がいつまでも続くようならばやっている意味がない。そういうところから脱却をしようという強い意志があったから、困難にも耐えることができたのです。
私も長年実業の世界にいるわけですが、いま私が尊敬している実業人の皆さんは、いずれも大きな会社の方たちではありません。見事な経営手腕で業績を上げ、凄い数字を出している方もいらっしゃるでしょう。しかし、私の心を揺さぶるのはむしろ中小企業でありながら、よくぞここまで仕事を徹底されるものだと思わせる人たちです。
私は尊敬というよりも、西郷南洲(西郷隆盛)の生き方すべてを敬愛しています。もう好きで好きでしょうがない。なぜなら、あれだけの政治的な権力を持ちながら、西郷の弱者に対する思いやりの深さは並みではありません。そのことに私は好感を持つわけです。残念ながら、いまのリーダーと呼ばれる人たちは、そうではありません。最初は誰だって謙虚だったと思います。ところが最近の政治家を見ましても、傲慢そのものです。
よその会社のように、その人の上げた売上高、利益額といった数字で評価したりすることはありません。その人がいかに誠実に仕事に取り組んでいるか、誠実にお客様に奉仕しているか、そういったメンタルなものを主たる評価基準にしています。
いま、多くのビジネスマンが活躍しています。それぞれ自分なりの目標を持って仕事をしていることでしょう。ただ、仕事の真の価値は何かを明確にできているかどうかで、大きな差が出ます。一定の仕事ができて一定の収入が得られたらいいという考え方も否定はしません。しかしそれが目的の人は、すぐに満足してしまう。で、今度はどうするかというと、今の自分を失いたくないと保身に走るわけです。
良心が咎められるような仕事をさせられていては、元気になるわけがありません。私はいまの企業の多くが、目の前の売上のために自分の良心を売るような仕事を社員にさせている、企業がいわば犯罪人製造株式会社になっているのではないかという危惧を抱いています。
東日本大震災でも、パニックにならず節度を守った日本人は立派でした。いまあらためて言えるのはそれも国力であるということです。それを支えているのは昔の武士道精神や寺子屋教育といった、日本の優れた精神文化です。その伝統はかなり失われていますが、まだ少しは貯金があります。
本当の力を蓄えるにはやっぱり時間がかかるということを忘れてはいけません。まずそれには、明治維新のときのように、日本人としての精神の土台がきちっとしなければならないと思うのです。土台をおろそかにしたまま、いくら策を講じても儚いものです。
長いことやっていれば社風や社員が変わってくることは確かです。しかし、自分が払っている努力に対しての効果は遅い。だから皆何でも途中で止めちゃうわけです。8年ほど前のことですが、私は森信三さん(明治生まれの哲学者、教育者)のこんな言葉に出合いました。「教育とは流水に文字を書くようなはかない業である。だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」もっと早くこの言葉を知っていたら、私は迷わなかったかもしれません。ただそれを知ったのは最近のことですが、自分がやってきたのはこのことだ、森信三さんの言ったことを、私は本当に身をもってやってきたのだと思いました。
私の同業者が全部つぶれたのは、一時的な成功に惑わされて事業が成長するごとに大きくなるマイナス面に対応ができなかったからです。いつまでたっても以前と同じことをやっていたから、みんな消えてしまいました。時代が読めなかった、お客様の心が読めなかったわけです。現実の空気こそ読まなければならなかった。そこに問題があると思うのです。
人の心は見えているものに似てきます。会社周辺がゴミだらけで平気であるというのは、心の中もそうだということです。しかし、掃除を続けていると、それが放っておけなくなる。近所の人に役立っているという意識と、掃除をより美しくするために道具や段取りを工夫していく。このふたつが相まって、社員の心の成長につながっていくんです。
政治家や官僚たちがなぜ成果を出せないか知っていますか。それは物事の対処を何が大事かで決めているのではなく、難易度で決めているからです。むずかしい問題は全部先送りにして、簡単にできそうなことだけをやる。これでは悪くなることはあってもよくならない。
中国の孟子は、教養のある人というのは、頭のいい人のことを言うのではなく、思いやりのある人だと言っています。そういう意味からしますと、超一流の大学を出ていても、知識人かもしれませんが教養人とは言えないわけです。
目先の損得にこだわる振る舞いは、私から見れば将来確実に不幸になる行動と言えます。なぜならそこには、人として高邁に生きようという美意識がなくなっているからです。そして、そのような美意識のない人物が大成した例を、私は見たことがありません。それは、今までにたくさんの人を見てきた私の、間違いのない法則です。
経営とは進めるほどに、さまざまな副作用や副産物が必ずついて回るようになります。むしろそれらのマイナス面のほうが大きくなってくる。成功という目標だけを考えていると、表面上の達成に気を取られて、新たに見ていなければいけないことが分からずに、大きな誤算が生じるのです。ですから私は出世や成功を目標とすることを否定するわけではありませんが、それしかないということが問題だと申し上げたいのです。
未来のことをよく考えて決断ができるために、私は経営者たる者は、過去のことを知り、歴史に学ぶ心がけを持っていることが必要だと思うのです。いまのことだけしか考えないのは動物の世界です。私たちは人間として生まれ、人間の繁栄のために、過去と未来とをつなぐ現在にいるはずです。このことをしっかりと認識していなければならないのではないでしょうか。
現在、41都道府県に「掃除に学ぶ会」が結成されています。私は、その横断組織ともいえる「日本を美しくする会」の会長ということになっているのですが、昨年12月11日も「日本を美しくする会」と「広島掃除に学ぶ会」が広島県警と連携し、暴走族らの少年少女たち26人と一緒になって、公園のトイレ掃除を行ってきました。最初、少年少女たちも「だましやがったな」「こんな話聞いてねえよ」と怒ってましたが、私たちが黙々と掃除する姿につられて掃除を始めました。それも本当に一生懸命にやってくれたのです。彼らの一人がポロッと「こんな大人もいるんだな」と洩らしていたそうですが、それを聞いて私が感じたのは「少年少女たちの根底にあるのは大人への不信感。それが暴走という行為につながっている」ということです。心しなければならないと反省させられました。
自分の意にならない、そんなつらいときにこそ成功する。自分の都合のいい条件でやっても成功はない。なぜなら、これをこうすればとか、こうなればとか、さらにいい条件を期待してしまう。そうなれば、すべてに甘えが出て絶対に成功しなくなるのです。
私が昭和36年に事業を始めたころ、たくさんの同業者がいました。しかも、いずれの方々も私から見ると商才がある。いち早く成功された方が、「今度ビルを建てました。本社を大きくしました」とよく報告してくださったものです。ところが、そうした方々がどうなっているかと申しますと、いまほとんど存在していません。驚くほどです。それはなぜだったのでしょう。私は、彼らが成功に甘んじてしまったから、あるいは目標の達成がすべてであったために、そのあと目指すべき行き場所をなくしてしまったからだと思わざるをえないのです。
あなた方の議論はすべてどちらが正しいかという議論ばかりで、何が正しいかという議論を聞いたことがない。泥棒と詐欺師どちらが正しいかという議論をして、どちらが勝ったという結論を聞かされても、私から見ると意味がない。
毎朝、立派な経営理念や社訓を唱和させている会社がありますが、では会社がその通りになっているかといえば、全然そうなっていない。むしろ掲げている理念とは違うことをやっている会社の方が多い。私は立派な理念を掲げるよりも、毎日の仕事、社員の生活を通しての行いが、社会の規範やルールに反しない、社会に迷惑をかけない、ということの方が大事だし、またそういうことに気をつけて仕事をやってきたわけです。社会には規則にはなってないが、やってはならないことがたくさんあります。立派な経営理念を守るよりも、社会のルール、規範を自然に守れる人間、社員であって欲しいというのが私の願いです。
私は、あとを継ぐ経営者が楽になるように経営をすることが大事だと思っています。自分の任期では実績が悪くなっても、将来のために今こそ投資するべきだということならば、自分の評価はさておき、未来のために決断する。
ビジネスマンならずとも誰にとっても、人から評価されればうれしいものですし、出世すればやりがいにつながります。ですから出世や成功を目標として持つのは大事なことだと思います。ただ私は、「出世や成功がすべて」という生き方をすることが望ましいとは思えないのです。
私は「与えられた枠を使い切らない」ということを一つの信条にしています。どういう意味かと言いますと、ここまでやってもいいという権限・権利を与えられていることでも、その効力を最大に使用することにこだわらず、少なめに享受するということです。飛行機や新幹線に乗ると並んだ座席の真ん中にはひじ掛けがありますね。一人がそこにひじを乗せれば、となりの人は使用できなくなります。そのようなとき、私は最初から絶対に使わないようにしています。枠を使い切らないというのは、相手の余裕を考えてあげることなのです。そしてそれは自分の心の余裕をつくることにもつながるわけです。
私は平和主義者です。世の中を平和にしたい、みんなが穏やかに暮らせる社会をつくりたい。だから私は掃除活動をしているわけです。環境が荒れた状態の中で心が穏やかになるということは絶対にありえません。これは経験から得た私の結論です。
頭と体と心の関係が調和したときに、初めて人間らしい正しい判断ができるのです。ところが今は、みんな頭だけで考えてしまう。心を伴って考えたら到底できないことを平気でやっています。つい能率・効率にひきずられ、無意識に利己的になり、世の中が悪くなってしまうのです。
払ってくれそうだったら日参しなさい。しかし、おそらく時間の損をするだけで、その900万円のために、あなたは時間もエネルギーもどんどん使って消耗するばかり。それをもう思い切ってあげるのです。明日すぐにそのお得意先に行って、「もう売掛金はいりません。その代わり、2度とあなたとは仕事をいたしません」と言いなさい。
いま、世の中に閉塞感が漂っているとよく言われます。それは誰がつくったものでもない。必然だと思います。なぜならば、一人一人が、自分さえよければいいという考えになってしまったからです。
戦国時代に蒲生氏郷という武将がいました。豊臣秀吉に仕えた名将で、外様の伊達政宗を抑える役目を任され、秀吉の命により畿内から会津若松に領地替えとなりました。ところが、政宗との軋礫もあり、その上新参の領主ですから、周りの大名からしょっちゅう攻められる。必死で防戦するのですが、いくさに勝っても領地が増えるわけではありませんから、次第に家臣に褒美がやれなくなります。そのときに氏郷はどうしたかというと、褒美をやるべき家臣を一人ひとり呼んで、自分の屋敷の風呂に入れたのです。風呂を焚くのは氏郷自身。律儀な氏郷はわざわざ「湯加減はどうだ」と声をかけるのです。家臣たちはどんな褒美をもらうよりも感激したので、このもてなしは蒲生風呂として有名になりました。条件よりも配慮があれば、厳しい状況の中でも人はついてくるのです。
たとえば、伊勢神宮参りでは、内宮に行く前、宇治橋を渡るだけでもう清涼な雰囲気を感じて、伊勢神宮に来たという気持ちになる。学校でもきちっとした学校は、近くに行っただけでいい学校だと分かります。人間の心は見ているものに似ていく。だからこそ、よい会社の雰囲気をつくっていれば、社員の心情はおのずと安らぎ、正しい仕事につながっていく。これが私の信念なのです。
私は先般、山口県光市の浅江中学校で開催された「掃除に学ぶ会」に参加しました。そのとき、生徒が規律を守り、たいへん礼儀正しいことに驚きました。普通の中学校では、講堂で集まるといった場合、列も真っすぐ並べない。ワイワイガヤガヤと私語して、先生が「静かにしなさい」「静かにしなさい」と5回も6回も言ってもまだ静かにならないという具合です。しかし、浅江中学校では真っすぐ並んで集合し、私語もなくシーンとしている。私があいさつをするため列の前に出ていくときでも、まるで無人の林を行くが如くの静かさで、本当に秩序を守って待っていてくれたのです。私はそれを見て、子どもというのは指導者さえしっかりしていて、正しい指導をすれば、いくらでもよくなるということを実感したのです。
各種のセミナーで、「会社は利益をあげないと一人前ではない。まず一億円以上の利益をあげないと一流の経営者としての資格などない」と言われる。私の知人のある経営者はその言葉を信じて、一億円の利益をあげるまでにがんばった。ところが目標が達成されたからいい会社になったかというと、決してそうではありませんでした。社員それぞれが勝手なことを言い出して、社風が悪くなった。おりしもバブルが崩壊し始めて、売上が下がっていく。彼は真っ青になりました。私が彼と出会ったのはそんな状態のときでした。私は売上よりも大切なものがあると諭しました。その後、彼が私の助言で経営のやり方を変えたところ、会社がよくなったのです。今は売上がピーク時から比べると4割減、半分になることすらあります。ところが自己資本比率は90%、キャッシュフローは300%という強い経営体質の会社になりました。ですから知人は、もしあのとき、あのまましゃにむに売上、利益に固執していたら、会社はなくなっていたと思うと述懐していました。目に見える、数値で示されるものだけを追い求めていくと、結局行き詰まるのです。
「企業の社会的責任」とは、利益を追求し納税の義務を果たすことを根底としながら、あらゆるステークホルダー(利害関係者)からの要求に対して、適切な意思決定をすることであります。表現は一様ではないものの、概ねこのような考え方といってよいでしょう。このステークホルダーの中には社員も入るわけですが、私は社員を立派な社会人として成長させるという社員に対する社会的責任を唱える経営者が少ないことを嘆くのです。
世の中には、大切なことでも見捨てられ、見過ごされ、見逃されていることがたくさんあります。なぜか。ひと言でいえば、よいことだとは思っても、「なんだそんなことか」という見解で片づけてしまっているからなのです。けれども一見些細な「なんだそんなことか」というようなことに対しても、おろそかにしないで真剣に取り組んでみる。そうすれば、必ず成功するかどうかは分かりませんが、成功の元になると思うのです。
経営者は、社員が他者に対する配慮ができるような会社にしなければいけない。他者のことを慮(おもんばか)ることもできない社員、家庭を壊したり反社会的な行動をする社員をつくりだしたりする経営者は犯罪者です。社員の心を美しく保ち、成長させることもまた、企業が問われるべき社会的責任ではないでしょうか。
どんな立場で、どんな仕事に就いている人でも、経営に携わるとなれば公の心を持っていなければいけません。ところが残念ながら、自分の会社だけ売上と利益が伸びて、業績さえ上げればいいという経営者が多いのです。しかも同じ経営者でも、サラリーマン経営者になってくると、自分の任期だけよければいいという考え方に陥る。ですから、後任の人は苦労させられ、また同じ愚をくり返していくのです。
いい人生とは何でしょうか。お金儲けに成功して、大豪邸に住み、立派な車に乗り、ブランド物を身につけて、おいしいものを食べられる。これがいい人生、勝者の人生だと思っている人が多いことでしょう。しかし、それが本当にいい人生なのでしょうか。
一番の問題は、他者のことを思いやれないほど、社員を追いつめることです。追いつめられると、人間は自分のことで手一杯になる。すると他人の苦労、骨折りに対して、感情移入もできず配慮もできなくなるのです。追いつめられた人が多くなると、社風は悪くなり、社会にも伝染していく。そして悲しいことに、追いつめられた人は、自分より弱い人に当たるのです。それがつながっていくと、いずれは社会の一番の弱者にそれが行く。どこにも当たるものがない弱者は、やり場のない怒りを持ち、今度は不特定多数に怒りをぶちまける事件を起こしてしまうわけです。
自分の才能を見つけて成功できたらこんな喜びはありません。ただ私の体験で申しあげるならば、自分の才能を発揮している人はどんな人かというと、まず言えることは「人が”なんだそんなことか”と思うような取るに足らないことに一所懸命取り組んでいる人」です。
私の家では、物を机の上に置くにも、斜めには置かない。必ず縦横そろえて置くのです。少年時代、東京に住んでいたとき、私は比較的裕福な生活をしていました。それが一変したのは、太平洋戦争の影響で岐阜県に疎開したときです。父の兄が家を継いでいたのですが、冷遇されて、敷地内の柱も腐ってポロポロの掘っ建て小屋に、一家全員が入れられた。ところが私の両親は、そうした待遇にも絶対に愚痴を言わなかったのです。そして何をしたかというと、そのあばら家を磨き、補修し、片づけて綺麗にした。普通だったら惨めになる境遇を、綺麗にして矜持を保ったのです。いつも毅然として生きていた両親。その姿に私は12歳の子どもながら人生の貴さを実感したのです。実際にはいかなる境遇になっても卑屈にならず、お互いの尊厳を認めつつ正しい生き方に徹するのはたいへん難しいことです。でも幸いなことに私は親を通じて人間らしい美しい生き方があることを知っていたのです。
人の成長とは、単に意義があるという以上に、美しいことではないでしょうか。厳しい実業の中でも人間としての豊かな心を育むことは可能です。ただそれを為していくには環境が大切です。人間はいい匂いをかいでも、美しい景色を見ても、気持ちがよくなるものです。乱れた環境より、美しく整った環境に身をおくほうが、心地よくなるはずです。ですから私は会社だけではなく、会社の周辺を含めて少しでも環境をよくしようと掃除に励んだのです。
〈知〉と〈痴〉という字があります。〈知〉はともかく、〈痴〉については、だれもが「こんなものはいらない」と言う。けれども私は、人間とはこの〈知〉とく痴〉の両方をあわせ持たないといけないと思うのです。ところが今は〈知〉ばかり。これはたしかに必要なのですが、〈知〉だけでは人間は幸せにならないのです。なぜかというと、人に対する思いやりを失っていくからです。むしろ、〈痴〉のほう、すなわち愚直さを持っている人のほうが人に対する思いやりがある。それが貴いのです。
不思議なことで、人間は究極の窮地に陥ると、ものすごくカンが鋭くなってくるものです。あるときお客様の一人が、あるクラクションを欲しいと言われた。昔、『トラック野郎』という映画が流行って、出てきたトラックについていたクラクションです。エアホーンというアメリカ軍用車のもので、ものすごく鋭い音が出る。ところが、そんな商品はどこにもありません。けれども私は過去の経験でツテがあり、何とかそれを探してきたものだから、お客さんが驚くほど喜ばれたのです。このお客様がこれほど喜んでくれるということは、まだ需要があるのではないかと思えました。つくっているメーカーもそんなに売れるとは思っていなかったその商品を、私は大量発注してコストを下げて取り扱ったところ、大ヒットしたのです。そのあとも次々と大ヒットが出て窮地を脱することができました。それは普通だったら聞き逃すようなお客様のほんの一言です。「まあ、一応探しておきましょう」と言いそうなことを、私はそれですまさなかった。それで窮地から脱したのですこの国をよくするのは。
能率、効率をあげるために努力は必要ですが、度を過ぎた追求は人間の心を崩壊させます。もちろん、誰だってお金は欲しい。給料は一円でも高い方がよいでしょう。それは決して誤りではありません。しかし、そこだけを追求すればみんな満足するかというと、ますますもっと望むばかりで、心が渇いてくるのです。私は高い給料やボーナスが悪いと言うのではありません。経営者として報酬を出すことは大事なことですから。ただ、それだけでいいはずはない。厳しい目標追求をした分だけ、社員の穏やかな心をどうやって維持するかが大切なのです。
子どもたちとトイレ掃除をする運動をしています。わずか2、3時間でも、子どもたちの心映えに打たれることがあります。たとえば、「今まではトイレを汚しても平気だったけれども、掃除してみたら、もうこれからは汚せない」とか、「今まで家のトイしはおばあちゃんが掃除してくれて、何とも思わなかったけれども、おばあちゃんがこんなしんどいことを毎日やっている。私もときどきでいいから手伝いたい」と言ってくれる。

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