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作家の名言

三島由紀夫の名言・格言

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三島由紀夫

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三島 由紀夫(みしま ゆきお)

出身地:東京府東京市四谷区 生誕:1925年(大正14年)1月14日 死没:1970年(昭和45年)11月25日 職業:小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。

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三島由紀夫の名言・格言

ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと望んだからだ。
世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の何ものでもない。
何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。
なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。
芸術家といふのは自然の変種です。
愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと人類共有の文化的遺産になります。
女といふものは、自分を莫迦だと知る瞬間に、それがわかるくらい自分は利巧な女だといふ循環論法に陥るのですね。
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと。
愛は断じて理解ではない。
美しい女と二人きりで歩いてゐる男は頼もしげにみえるのだが、女二人にはさまれて歩いてゐる男は道化じみる。
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。
理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、人は「親密な他人」になれない。
いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人がしつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。
微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
嫉妬こそ生きる力だ。
空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。
世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。
偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。
何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。
伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。
個人が組織を倒す、といふのは善である。
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。
経済学の学説なんぞといふものは、どつちみち如意棒のやうなもので、エイッと声をかけて、耳へ入るだけの小ささに変へてしまへばやすやすと握りつぶせるのである。そもそも唯物論は、『金で買へないものは何もない、どんな形の幸福も金で買へる』といふ資本主義的偏見の私生児なのである。感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままある。
われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は同じなのである。自分の死の分量を明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。まづ個人が復活しなければならないのだ。
男性は本質を愛し、女性は習慣を愛する
死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言ひ直すべきだらう。人は自分の意志によつて生れることはできぬが、意志によつて死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自然哲学の根本命題だ。しかし、死において、自殺といふ行為と、生の全的な表現との同時性が可能であることは疑ひを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。これには逆証明が可能だと思はれる。
天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった。
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でもなんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下でなければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
女の人には、自分で直感的に見た鏡が、いちばん気に入る肖像画なんです。それ以上のものはありませんよ。
人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明するものと同様に、「お金」の他にはありません。打算があつてこそ「打算のない行為」もあるのですから、いちばん純粋な「打算のない行為」は打算の中にしかありえないわけです。
人生とは何だ? 人生とは失語症だ。世界とは何だ? 世界とは失語症だ。歴史とは何だ?歴史とは失語症だ。芸術とは? 恋愛とは? 政治とは? 何でもかんでも失語症だ。
恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらがより多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ出した手紙のなかで書いてゐる。
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

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女は決して征服されない。決して!男が女に対する崇敬の念から凌辱を敢てする場合がままあるやうに、この上ない侮蔑の証しとして、女が男に身を任す場合もあるのだ。

愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。

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男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。
女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。
やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。というのは、ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、クラブというのがありますね。みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブをステイタス・シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段をするわけです。アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。
事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつともなごやかな形式なのであります。
人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしないといふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。
いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる
真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ生れる

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