アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)
職業:僧侶 誕生:1945年 出身:スリランカ
スリランカ上座仏教長老であり、日本大サンガ主任長老、日本テーラワーダ仏教協会長老、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職。日本において仏教伝道、および瞑想指導を行う。
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アルボムッレ・スマナサーラの名言格言
人生にはひとつのことに「成功した」とか「失敗した」とかいっている暇はないのですよ
人間はみな、欲の病人です
感情にまかせて突っ走る人は、ただうるさいだけです。迷惑です
他人が悪い見本を示したときそれは自分にとってこれ以上ないほど役に立つ手本になってくれます
人生にはひとつのことに成功したとか失敗したとか言っている暇はないのですよ
あまりにも遠大な目標を持ちすぎると、そこにつけ込む人も現れます
お釈迦様は在家の信者に対して、こう説かれています。「収入の半分は投資にまわし、4分の1で生活しなさい。残りの4分の1は貯蓄しなさい」
「社会の歯車」という言い方がありますが、人間一人ひとりは、歯車でさえない。せいぜい水道の蛇口を締めるときに使う、ゴムのパッキンくらいの存在です
シンプルライフというのは、そうでない生き方のおかげで成り立っているのです。ファーストライフが悪いのだったら、スローライフも悪いのです
生きるというのは、単に母体から生まれてきた生物が、年をとって、徐々に衰えてゆき、ついには寿命を迎えて死んでいく、ただそれだけの話です
実はいつも「忙しい、忙しい」といっている人は、一見まじめなようですが、「怠け者」です
人生には「岸まで漕ぐぞ」という覚悟が必要です
生まれたばかりの赤ちゃんは何もできません。でも、生まれてから毎日毎日学んでいるでしょう。そうやって死ぬまで学ぶんです
親子の間でさえ、お互いが何を考えているのかを完全に知ることはできません。ましてや他人同士は難しいのです
仏教的にみれば、リーダーとはたった一人の誰かではなく、自分の役割をきちんと果たせる人々すべてであると考えることができます
危険だと承知のうえで、最大限の注意を払いながら生きてゆく
世間でいう「幸せ」というのは、ある苦しみが一瞬紛れた、消えたように見えた状態のことを言っているのであって、絶対的な「幸せ」などというものはどこにもないのです
人間の心は、放っていけばすぐ悪い方向へ向かいます
「先がわからないのが人生である」と理解しておいて、あとは現実に基づいた不安を持つ
祈るくらいなら努力してください
自分を嫌うことほど損なことはない
人間関係はなぜこれほど難しいのか。それは、人間にはもともと社会性がないからです
私たちは「他人の気持ちがわかるようになりたい」という大それたことを考えるのはやめるべきです。それよりも、「自分の気持ち」を理解することです
妄想とは、とにかく概念を回転させることです。結論はありません。だから、ノンストップで流れるものです
感情というのは、理性が壊れた状態のことをいいます
もっと欲しいという思いが人生を苦しくします
妄想とは、現実をありのままには認識しないで、自分の好みで、主観で認識することです。頭の中で概念だけが回転する状態です
慕われる人に共通するのは周囲に喜びを与えているということ
未来である「明日」から見れば、過去である「今日」は常に失敗です。人生は失敗の連続なのです
いくら世間から評価されようとも「あれ、これは違うぞ」という心の声が聞こえてきたらそれはしてはいけないこと
水田もないのに稲はつくれません。友人をつくりたいのなら、まず自分の周囲にしっかりした人間関係をつくることです
主観による思考がストップすると、妄想もストップします。すると、心は無色透明のきれいな状態になります
幸福になりたいなら、自分の『幸福になりたい』という意志で、幸福になるように行動すればよいのです
自我の錯覚にしがみついている無知な人は、自分の殻の中にとじこもって、主観の生み出した概念に永遠にふりまわされてしまうのです
ものを捨てるときは、いい気分で捨てましょう
人を羨む気持ちが生まれたらどうすればいいか。まず、猛毒だと思ってすぐにつぶすことです
仏教では、知識をやみくもに増やすことを推奨しません。人生に役立つ程度に知識を増やし、それを使っていく。それ以外の、自分の人生にとって役に立たない知識は、まったく憶える必要はない。これが、仏教の「知識」に対する姿勢です
何かにこだわるから、怒りや欲が出るのです。執着を捨てられれば、こうした怒りや欲に苛まされることもなくなり、エネルギーを満たしつづけることができます
人生はすでにスタートしています。もう引き返せません。どんな人間でも死ぬ、そこがゴールです
理性のない人にどういわれようが、どう思われようが気にすることはない
美しい心の持ち主には世界は美しく映ります
飢えている人にご飯をあげることはできますが、食べるという仕事は、その本人がしなくてはならないのです
人間は、自分のことであっても、はっきり知りません
世の中には「答えのない問い」と「答えのある問い」があります。「生きる意味」は「答えのない問い」です。「答えのない問い」は放っておく
仏教が勧める生き方は、「将来の夢」など考えずに、いま瞬間やっていることは、何であろうとベストを尽くすことです
自我というのは錯覚なのです
妄想しているから、ストレスがたまるのです
人間の本音というのは、自分の願望さえ叶えば、どんな残酷なことでもやってのけるのです
何かをさがす目的で森に入る人は、ほんとうの森の姿はみえません
批判されても気にすることはないのです。世間からすれば、あなたはどうでもいい存在ですから、無責任にいいたい放題なのです