石黒浩の名言格言110選

同じものを食って、美味いとか嫌いとかこういう野菜で作ってて、ってすごくあいまいで主観的な知識だけどある程度共有できる客観的な事実も入ってるわけ。だから食とコミュニケーションというのは非常に近い関係にある

私は、ジェミノイドが携帯電話に続く新しいメディアになると思っています。電話は場所と場所を越えて人をつなぎ、携帯電話は場所と時間を越えて人をつなぎましたが、ジェミノイドは人間の存在を遠隔地に送る新しいメディアになります

ロボットが動作をすべて正確に再現する必要はなくて、唇の動きしか同期していなくても自分の体だと認識できる。一部の動き(唇の動き)がちゃんとつながっていると、その体を自分の体だと錯覚する。脳と体は密にはつながっておらず、脳は予測のもとに活動しているんです

我々と自分の体とのつながりなんて、わずかなものです。呼吸したり歩いたりしていても、体が勝手にやってくれているのを時々確認してるだけじゃないですか。そんなもの機械に置き換えられるに決まってます

人と関わるロボットを作るには人を知らないといけないということ。ロボットを作ることは、人とは何かを知ることなんです

このお店の子たちはがんばってるし、潰れるとは思わないけど。大々的に宣伝してください。これで売上があがらんかったらえらいことですよ

ふだん意識して見ていない自分の癖は、見ても自分のものだとは思えない。自分は自分のことを他人ほどは知らない、ということです

ジェミノイドは、人よりも人間らしく死にます

食(しょく)ってすごく人間らしいじゃないですか、食にからむロボットってすごく生々しくっておもしろいですよ。ロボット食えたらめちゃめちゃおもろいよ。どうせなら、人間そっくりのアンドロイド作って食っちゃえばいいんですよ

じゃあ、まず食べられるロボット。食用ロボット。食べられるロボットっていうのはできることはできるんです。金属でロボット作らないといけないというルールはないので。だから食べられるものを部品にして動くロボットを作る

幸い、予算をとるのは得意な方ですね。そういった実務を面倒がる研究者もいるでしょうが、お金がかかる研究したいなら金は何とかして集めないといけない

そのうち仏教みたいに「無」にたどりつくかも。最後は宗教かなぁとも思いますよ。産学連携ならぬ教学連携かな(笑)

回転寿司は表に機械を出してロボットが作ってますって見せるのが主流になりますよ。大衆向けの居酒屋チェーンなんかもそう。そっちのほうが絶対に気持ちいいんです

十分な理由づけができれば、一気にいきます。中途半端にやるのが一番よくない。というのは、アンドロイドのときにも思いました

女性アンドロイドと対話する被験者の目の動きを調べると、人を見たときとアンドロイドを見たときの目の動きはいっしょだった。無意識にはアンドロイドを人間と同じように捉えていたということです

日本はね、それでいいんです。島国でみんな目を合わせただけで会話ができるくらいに特殊なプロトコルが発達してるからね

だってラーメンの味って、いうたらほとんどグルタミン酸ナトリウムの味やん。ぼくラーメンチェーンのラーメンって純粋に味の素の味がして、さわやかやとすら思うよ

ピカソはまだ数学的というか、科学や技術でたどりつける範疇にある気がするけど、シャガールはもう人間そのものの写し絵みたいだと感じます

それでも、やっぱりアンドロイドは機械で人間とは違うじゃないか、と人は思うわけです。では、機械と人間の最も大きな違いはなんなのか

だって食べてみたいと思わない? ロボット。食べてみたいでしょ。お菓子やったら最高やん。ロボットの踊り食いみたいなんできる

食欲と性欲って非常に近いんですよ。でも食のほうがソーシャル。性っていうのは一対一で個人的、パーソナルなもの

だからシャガールに憧れます。あの人は何も考えずに描いている。そこに強烈に人間味みたいなものを感じる

研究者はいったん分野ができると、それしかものが見られなくなる。でも、そもそも研究というのはそうじゃない。既存の分野にとどまっていたって新しいことがやれるわけないんです

でもね、ロボットが食べれるようになったらすごく生物的な感じがするはずだよ。だってロボットの目的って生物じゃん。生き物っぽくしようってやってたわけでしょ。生き物のひとつの定義は食えるってことだからね。だから食べれるロボット作ったら急に生モノっぽくなる

食に関するロボットってね、ごはんを作るロボット、ごはんを食べて味がわかるロボット、食べられるロボットって3通りあるんですよ

いったんジェミノイドと話し始めると普通に接するようになった。いつも一人でご飯を食べて淋しかった人が、ジェミノイドと一緒にご飯を食べたら淋しくなかったそうです

でもぼくの行く店は大体つぶれるんです。だいたいぼくが行くところって人っけが少なくて料理はうまいけど経営者が気難しいとか、そういうところと妙に気が合うので。行ってるうちにだんだん客がいなくなり、やっぱりつぶれたか……と

人よりも人らしいアンドロイドを作ること。いわば人間のマキシマムデザインです。人間より豊かな表情を持ち、言語の表現能力が非常に高いアンドロイド。それに人間らしい社会行動をプログラムすれば、普通の人よりはるかに完璧な人間ができあがるのか

女性アンドロイドを1.5mほど離れた状態で2秒だけ見せる実験をしました。動きのない状態のアンドロイドでは8割の人が人間ではないと気づきましたが、自然な目の動きと体の動きがあるアンドロイドを見せると、7割の人が人間だと答えました

失敗したら死ななければならない。そこまで突き詰めていたら、人は何ごとに対しても必死になって頑張るものです

人間とは何か考えてもわからないけど、考えることをやめられない。それが安定であり幸せ。そういうことを共有できるような宗教をやりたい。それはいってみれば科学ですけども、一般の人は宗教と言わないと敷居が高いだろうから

私はゴキブリといっしょになりたくないわけです。なにもせずに、食って寝てクソするだけ。それって人間?

「人が生きていることに価値はあるのでしょうか?」時おり、高校生からこんな質問を受けます。そんな時、僕ははっきり 「価値などない」と答えます。でも「だから探すんだ」 と必ず言葉を継ぐ

上海の空港で上海蟹の自動販売機っていうのがあってめちゃくちゃ売れるの。店で売ってる上海蟹は価格も衛生管理も信用できない。でも空港の自動販売機は冷凍の設備があって汚くないので、そっちのほうがよっぽど信用できる。ロボットの方が信用度高いわけです

主観と客観の間が食なんです。客観的な意見は社会的に認められる力が強いわけだけれど、一見客観的な意見を言ってるようでじつは主観でしか意見をいってないのが食なんです

戦争で銃火にさらされている時に、そんな悠長なことを言っていられるわけがない。落ち込んでもいいという甘さがあるから落ち込むのです

人間とは何かはわからないけれども、漠然とわからないのではなく、人間がどれだけ複雑か、どれだけ神秘的かが研究の中で少しずつわかるようになってきている、という感覚があります

ぼくは楽しみ以外で生きてないつもりなんです。こういう取材もおもしろいと思ってやってるわけでしょ。ぼくらがロボットを作る理由は人っておもしろいなあと思って、人らしいもの生き物らしいもの作りたいなあって思ってやってる

人間とは何か?なぜこの世に生きながらえるか。生きるということは、身をゆだねるということ

今、高島屋でミナミちゃんっていうアンドロイドが服売ってるんだけど、こないだ結果見たら、男性服売り場で売り子24人中の6位だった

『客観的な事実はどうでもいいの、私はこう思う、それに共感してください』と伝えるのにコミュニケーションのなかで食(しょく)が一番やりやすい。食以外のものはもっと客観性が強いんですね。知識があるものが勝っちゃうわけ

けしからん事に誰もジェミノイドを送り込んだ会議に出張費を払ってくれない。生身の私が来ないとダメだというけど、今まで私に脳があるか、内臓があるかなんて確かめた事ないじゃないか

服装は他人が最も認識しやすいアイデンティティじゃないですか。それを変えようとする理由がわからん

倫理などと口にする科学者は本物じゃないと思います

おそらくクローン人間のような存在は、今の社会では受け入れられないだろう。でも、人間や心の定義ってどんどん変わっていっていて、クローン人間が人権を持ち、差別なく受け入れられることも可能性としてあると思います

もちろん動力源も食べられる。たとえば草食べて成長するようなロボットができるかもしれない。現にハエを食べて酵素で分解してエネルギーで動くロボットがイギリスで開発されているんです

人間と長くしゃべり続けられるアンドロイドは、少なくとも私が生きている間にはできないと思います

君ら発想力たりんな。全部食べんねん、まあ骨は残してもいいけど

人にとって究極のチャレンジは、自分が生きている価値を見つけること

私自身はこう考えています。心の存在は強く感じる。でも感じるがゆえに、心の存在に疑問をもちます。ロボットを研究すればするほどその疑問は強くなります

昨年の事業仕分けで、二番ではいけないのか、という発言がありましたが、そんなのダメに決まってます。一番をとる以外は研究じゃない。そこがわかってない人に税金を割り振られる国では、いろいろ気をつけなければいけないんです

でもおもしろいって思わへん? いや、食べれるロボット絶対おもしろいよ……これ記事になるかな?

人とは何か。心とは何か。そこに 一切の折り合いをつけないっていうのが研究者として一番大事なこと

哲学 ウィトゲンシュタイン、「私」は消去できるか?本当に消去してしまえる気分になる。というか、もともと無い私に気づく

ではアンドロイドは人間を越えられるのか。その挑戦を私は始めているところです

僕自身も自分が生きている価値なんてわかりません。だから、いまだに探し続けているんです

VTRで見てたら大林さんが若手芸人が帰ったあとに一人で洗い物しながらマツコロイドに『みんな帰っちゃったね……』って。もうね、私たち二人で生きていくしかないよねっていう感じが……

たとえば、アンドロイドに触っていいと言われても、人は無意識に躊躇するんですよ。どこかで人間だと思っているから

主観と客観を入り乱れさせることを対話っていうんです。完全に主観だけの対話は対話じゃない。だって一方通行になるから。なにも共有するものがなくなってしまうでしょ

(不気味の谷の)もう一番深い所は超えました

フランスでもどこでもコミュニケーションとしての食を大切にする。西洋的な文化は人間の社会に素直なんですよ。日本はちょっと違うかもしれない。儒教の文化でかなり制約をかけてるんですよね。でもぼくその素直じゃない文化、好きなんですよ。ぼく武士道大好きだし

ごはんを作るロボット。ロボットレストランっていう話。これはねぇ、書いてもいいけど、回転寿司があるじゃん。ぼく次の回転寿司は多分こうなるだろうなというのがあって、回転寿司って機械で作ってるところが多いでしょ。あれなんで表に出さないの?

人間であるわれわれが『こいつは人間だ』と思えば、それは人間であり、人間がどういうものか確定できる。つまり、ロボットは人間の鏡のようなものなんですよ