岡潔(おか きよし)
職業:数学者 誕生:1901年4月19日 死没:1978年3月1日 出身:大阪府大阪市
奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年〈昭和15年〉)。フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数複素関数論に出会う。当時まだまだ発展途上であった多変数複素関数論において大きな業績を残した。一変数複素関数論は解析学から数学的解析に至る雛型であり、そこでは幾何、代数、解析が一体となった理論が展開される。本来あるべき数学はこれを多次元化する試みであると考えられる。数学の立場から眺めると一変数複素関数論の素朴な一般化は多変数複素関数論であるものの、多変数複素関数論には一変数複素関数論にはなかったような本質的な困難が伴う。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡である。
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岡潔の名言格言
数学は必ず発見の前に一度行き詰まるのです。行き詰まるから発見するのです
本だって読むことより読みたいと思うことのほうが大切なのです
人は、男・女性に関するさまざまなことを、さまざまな経験によって知るのではなく、情緒的に、すでに知りつくしていることを、単に経験によって、具体的に知るだけのことなのです
明治以前の日本人は死ねばそれきりなどとは思っていなかったのであってこの一生を長い旅路の一日のごとく思っていたのである
数学のもとになるのは頭ではない。情緒だ
数学上の発見に関して西洋人はインスピレーション型、日本人は情緒型
足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩をだすことができない。そういうのを抽象的といったのです
個性が出るようにするにはどうするかということを教えなければいけないのでしょうね。個性がなくなりました
理想の高さが気品の高さになるのである
自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います
いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目的がこれだからさあそれをやれといえば道義という肝心なものを教えないで手を抜いているのだからまことに簡単にできる
文章を書くことなしには、思索を進めることはできません
広い世界のものには関心が持ちにくく、狭い世界のものには関心が持ちやすい
まだ、したいことはいっぱいあるから死にたくない。しかし、しょせんだめだろうなあ。あしたの朝には命はないなあ。計算ちごた
数学の営みは「おのれの情緒を外部に表出する学問芸術」であり「情緒を表現して数学を創造する」ことだ
理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない
心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね
個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです
勘は知力ですからね。これが働かないと、一切がはじまらぬ
しかしこんな美しい地球を滅ぼさせたくないですね
最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をもとに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです
(情緒とは?)野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心
知性は理性と同一ではなく、理想を含んだものだと思うが、はっきりと理想に気づいたのもギリシャ文化が初めてだった。これを代表しているのがプラトンの哲学・及びユークリッドの幾何学である
さしあたって教育をどう攻めていくかであるが,経験から学ぶのが科学であるからには暗中模索するよりは戦前に戻してそこから軍国主義を抜けばよいと思う
情緒の中心の調和が損なわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう
人は極端になにかをやれば必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です
言葉で言いあらわすことなしには、人は長く思索できない
敬虔ということで気になるのは、最近、「人づくり」という言葉があることである。人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けをするにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだしいと思う
いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争がないようである間は、人類時代とはいえない、獣類時代である
自分の好きなものだけが正しいのだと言う勇気はありませんね
苦心を払わせるものを私は情熱といっている
日本は個性を重んずることを忘れてしまった
現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない。そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない
時間は情緒に近い
こういう世相にあって,のんきな数学などは必要ないと思う方もあるかも知れません。しかし,数学というのは闇を照らす光なのであって,白昼にはいらないのですが,こういう世相には大いに必要となるのです
自分の研究の方向は分かった。そのためには、まずは蕉風(芭蕉一派)の俳諧を勉強しなければならない
私は三日かからねばつまり二晩寝なければ解けないという問題から問題と呼ぶことにしている
今、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか
日本だけのことではなく西洋もそうだが学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする
数学は印象でやるもので記憶はかえって邪魔になる。忘れるものはドンドン忘れて行く。これが極意です
オリジナルは生命の燃焼によってしか作れない
人は動物だが,単なる動物ではなく渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる
僕は論理も計算もない数学をやってみたい
数学とは生命の燃焼です
今の教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目的がこれだから、さあそれをやれといえば、道義というかんじんなものを教えないで手を抜いているのだから、まことに簡単にできる
私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである
人の中心は「情」であって、情の根底は「人の心の悲しみを自分のからだの痛みのごとく感じる心」すなわち観音大悲の心である
科学が進歩するほど人類の存在が危うくなるという結果が出る
私は悪漢の書いたものが好きで、真正直な人の書いたものが嫌いである
人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です
人間が人間である中心にあるものは科学性でもなければ論理性でもなく理性でもない情緒である
人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくるということができるのです
どの人がしゃべったのかが大切なのであって、何をしゃべったかはそれほど大切ではない
問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね