親鸞(しんらん)
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。浄土真宗の宗祖。法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。
親鸞の名言格言
自分の意志で心臓を止められないから仏はいる
親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり
たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう
ただ念仏のみぞ、まことにておわします
もとより、罪業に形なし、妄想の為せるなり
どのような悪人でも念仏だけで往生できる
明日ありと思う心の徒桜、夜半の嵐の吹かぬものかは
行者、宿報にてたとい女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生の間よく荘厳し、臨終に引導して極楽に生ぜしめん
「如来」と申すは諸仏を申すなり
ひとのいのちみじかくもろし
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり、愚禿(ぐとく)が心は、内は愚にして外は賢なり
某 親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし
毒の入っている、薬を飲んではいけない
真実信心の行人は、接取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし
善悪の惣じてもて存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、よきをしりたるにてもあめれ
よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり
非人を差別する者こそ、真の意味での非人である
悪性さらに止め難し、心は蛇蝎の如くなり 修善も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞなづけたる
罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
念仏者は、何者にも妨げられない、大道である
人の命は日々に今日やかぎりとおもい、時時(ときどき)に只(ただ)今や終わりと思うべし
「凡夫」といふは、無名煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り腹立ちそねみねたむ心多く、臨終の一年に至るまで止まらず消えず絶えず
弥陀の名号へとなへつつ信心まことにうるひとは、憶念の心つねにして仏恩報ずるおもひあり
我はほどなく浄土に帰るなり。この世に言いおくこと一言もなし
さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし
いまから町へ出ていって、通りがかりの者でも、地下鉄の乗客でも誰でもよい。手当たり次第に千人殺してきなさい
人間というのは契機がなければ一人の人だって殺せないのだ。しかし、契機があれば百人、千人、殺したくないと思っていても殺すこともあるんだよ
浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらなし
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
なごりをしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり
一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし
よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを善悪の字しりがほはおほそらごとのかたちなり
一人いて悲しい時は二人いると思え。二人いて悲しい時は三人いると思え。その一人は親鸞なり